筏の起源

大和朝廷が日本を統一して飛鳥地方に都を造営しました。建物を造るにはたくさんの木材が必要です。
例えば東大寺大仏殿を造るのに5万石(約1万5千立方メートル)の木材が必要といわれています。
幾度か遷都を繰り返すうちに付近の山の木は伐り尽くされてしまいました。
藤原京、平城京を造る頃には離れた地域から木を運ぶしかありませんでした。
木材を運ぶのは川を利用して筏で運びました。
琵琶湖の南、太神山(タナカミヤマと読む、田上山とも書く)から伐り出して、
大戸川、瀬田川を経由して運んだものと思われます。
これが筏の起源でしょう。 万葉集にもその記述があります。

太神山はこうして木が伐られ、なおかつ焼き物産地の
信楽が近いためその後も薪が採られたため、長い間荒れた山でした。

参考文献 別冊宝島「日本史読本」より 深見茂氏の項
「木に会う」 高田宏 著 新潮社

万葉集
万葉集巻1に「藤原の宮の役に立つ民の作れる歌」があります。
藤原京の造営のために近江の国から桧が川を利用して運ばれる様子が歌われています。
「田上山」、「真木の嬬手(桧材のこと」)、「筏に作り」、「八十氏川(宇治川)」
「泉の川(木津川)」などの言葉が使われています。筏流送に従事した人が詠んだ長歌です。

記録に残る最初の筏運送ー円覚寺文書
応永28年(1421年)鎌倉の円覚寺が焼失しました。
その再建のための木材が翌年、翌々年に木曾で伐られ木曾川を下り、
桑名から鎌倉へ太平洋を筏で運ばれたことが円覚寺の記録に残っています。
量は筏100乗。
当事筏の単位が「乗」だったこともわかります。

現在の筏
今では筏の仕事は変わりました。
扱う木材は木曾の桧から輸入材に変わり、
筏を組む綱は植物のツルからワラ綱へそしてポリロープへと変わりました。
移動するのも水の流れを利用して人力で運ぶことから、曳船で引っ張るように変わりました。
しかし、江戸時代の筏の技術は今でも生きています。
「筏の一本乗り」の技術は名古屋市の無形文化財に指定されており、
毎年海の日にはみなと祭りで『筏師の一本乗り大会」として披露しています。

 
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